追悼特集 高橋幸宏が音楽とファッションの境界に架けた橋
2023.05.30
高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和

写真提供 高橋喜代美

WAG, Inc. 伊藤壮一郎 と担当マネージャー 佐藤雅和が語る 「高橋幸宏とファッションカルチャー」

Edit&Text by Yukihisa Takei(HONEYEE.COM)
Photo by TAWARA(MagNese)
オフィシャル素材提供 株式会社ヒンツ・ミュージック

今年2023年1月に逝去したミュージシャン 高橋幸宏。YMOでの活躍で世界中に知られるが、ソロワークスやサディスティック・ミカ・バンド、METAFIVE、SKETCH SHOWなどのバンド、ユニット活動、そして作曲やゲストミュージシャンとしても膨大な作品を遺している。

しかし今回HONEYEE.COMでは、あえて音楽ではなく、「ファッションの表現者」としての高橋幸宏にフォーカスする。誰もが“洒落者”と口を揃えるファッションセンス、YMOの衣装デザインやビジュアルディレクション、自身のブランドの展開、また1980年代後半からYohji Yamamotoのショー音楽を手掛けるなど、音楽とファッションがクロスオーバーする地点において、高橋はいつもパイオニア的役割を果たしてきた。

語り部となってくれるのはファッションブランドsoeのディレクターであり、ファッションPRのWAG, Inc.の代表でもある伊藤壮一郎。実は伊藤は高橋幸宏の甥にあたる。そしてもう一人は長きにわたり高橋幸宏のマネージメントを務めた佐藤雅和という、“高橋幸宏を最も近くで見てきた二人”による貴重な対談でお届けする。髙橋幸宏が、音楽とファッションの境界線に架けた橋とは。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和

伊藤壮一郎 |  Soichiro Ito
1977年東京生まれ。高校卒業後に渡英、帰国後、2001AWから自身のブランド soe をスタート。2013年にコンセプトストアのM.I.U.をオープン。TOKYO FASHION AWARD 2018受賞。現在はPRエージェントのWAG, Inc.の代表も兼任。WAG, Inc.創業者で日本初のアタッシェ・ド・プレスを立ち上げた母・伊藤美恵は高橋幸宏の姉であり、壮一郎は高橋幸宏の甥にあたる。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和

佐藤雅和 | Masakazu Takahashi
1960年生まれ。1980年代を象徴するサブカル雑誌『ビックリハウス』の編集者として活動ののち、1985年に高橋幸宏に誘われて髙橋の個人事務所のマネージャーに。以来、高橋が逝去するまで38年にわたり活動を共にする。株式会社ヒンツ・ミュージック 代表取締役。

おじさんは高橋幸宏

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― 佐藤さんはいつ頃から高橋幸宏さんのマネージメントをされているのですか。

佐藤雅和 : 1985年ですから、亡くなるまで38年マネージャーをさせてもらいました。だからほら、僕が入った翌年にやった1986年の幸宏のツアーパンフには壮一郎くんも出てますよ(笑)。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― これは小学生の頃ですか? 伊藤さんが「自分の叔父さんは高橋幸宏なんだ」と芽生えたのはいつ頃だったのでしょう。

伊藤壮一郎 : その写真に出ている時とかは全く分かっていなくて、1993年、僕が高校生の頃に東京ドームでやったYMO“再生”の時です。それまでもYMOのライブには行ったことはあったようですが、僕はカルチャー民度が低い子供だったので、それが“原風景”ですらなくて。でも10代の後半頃からは、毎日のように幸宏さんと連絡を取り合うようになりました。

― 毎日ですか。

伊藤 : 連絡取ってない日はないほどで、本当に頻繁に会っていたと思います。僕はロンドンに留学して19歳で神経症みたいになって帰ってくるのですが、自分がどうやって生きていけば分からないくらいの時期に幸宏さんの家によく行っていました。「お前は本当にオレに似てるな」って言ってくれていましたし、20代はずっと幸宏さんと一緒だったので、影響をモロに受け過ぎましたね。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― 具体的にはどういう影響ですか?

伊藤 : 人格形成において影響されていないことの方が少ないんです。自分の中に「コレは幸宏さんは好き、コレは好きじゃないだろうな」っていう基準が出来上がっています。少し後になってからは、そこにあえてアンチな部分を持ったりもしました。話し方も一時期すごく真似していたし、本当にすべてです。

― お人柄はどのような方でしたか?

伊藤 : とても優しい人ですが、たまに、東京っぽい突き放すところもあるというか。でも本当に面倒見が良かったですね。食事をしていたレストランで知り合った一般の方なんかとも仲良くなって、そのまま家に連れて行って皆でお酒を飲むみたいなのはしょっちゅうでした。そういうイメージはあまりないかもしれませんね。

佐藤 : 一見クールな印象で。山本耀司さんなんかも「幸宏は半径3メートル以内に入るとものすごく優しいし、仲間になるけど、そこに入るまでが大変だよね」とおっしゃっていましたけど、人と一緒にいることが大好きで、実は割と親分肌なんですよ。「自分の仲間」っていう認識になった瞬間に印象は一変します。老若男女を問わず、仲間をとても大事にする人でした。

ファションと音楽の血統

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

写真左が高橋幸宏、中央が姉の伊藤美恵(伊藤壮一郎の母)。若くから音楽とファッションに通じた兄妹の存在が、高橋幸宏をさらに早熟にした。

― 佐藤さんは近くで幸宏さんのファッション的な側面もよくご存知だと思うのですが、何か印象に残っていることはありますか?

佐藤 : 70年代から先端のファッションに身を包み、「SAINT LAURENTの靴でプレイするドラマーは世界中でも自分しかいない」といった独自のアイデンティティを持っていたことでも知られていますが、常にそのスタイルを崩すことはありませんでした。後年、病院の行き帰りにも必ずThom Browne を着てましてね。病院に着いたら検査着に着替えなくてはならないことがわかっていても、ですよ。それでも絶対にラフな格好はしなかったですね。

伊藤 : そこは徹底してましたよね。高橋家は当時は、やはり裕福な環境だったんだと思います。僕の母は幸宏さんの8才上で、ファッションの方に行くわけですが、両親の支援があったと聞いています。もう一人の兄の高橋信之さんも慶應で学生時代からプロのミュージシャンとして活動していました。だから末っ子の幸宏さんは、その二人の影響を同時に受けて、自然と両方入ってきたんです。やはり環境という部分は大きいと思います。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和

高橋幸宏特集が組まれた1995年の『MR ハイファッション』の誌面。

― 伊藤さんのお母様(伊藤美恵 / WAG, Inc.創業者)は日本のアタッシェ・ド・プレスのパイオニアですよね。

伊藤  : WAG, inc.の創業は、1985年なのですが、それ以前には、BUZZ SHOPというショップとブランドのビジネスを1970年頃、20歳過ぎで始めているんですよ。そこで(COMME des GARÇONSの)川久保(玲)さんや耀司さんが東京コレクションに出る前から付き合いもあったようです。当時、青山のベルコモンズの近くにあったBUZZ SHOPは、面白い人たちが毎日集まるような店だったそうで、そこに幸宏さんもよく遊びに来ていて、そこで影響を受けた部分は大きいと思います。

― 幸宏さんは10代でプロのドラマーとして活躍を始めますよね。

佐藤 : 16歳からですね。サディスティック・ミカ・バンドが20か21歳の頃。

伊藤 : そういう環境もあって、幸宏さんはすでに16歳でファッションと音楽の感度がかなり高かったのだと思いますね。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― 坂本龍一さんが最初に幸宏さんに会った時に、幸宏さんのオシャレさに驚いたという話も有名ですよね。

佐藤 : 驚いたというより、「なんだ、ミュージシャンが洒落た格好しやがって!」という感じだったんじゃないでしょうか(笑)。オシャレであることと同時に、お兄さんとお姉さんがそれぞれ音楽とファッションの世界で早くからプロの仕事をされていたので、独立心の強いインディペンデントな考え方が自然に身に付いたんじゃないかと思います。音楽でもファッションでも、特別な専門的知識を学ぶことのないまま、それでも自然に行けちゃったという生まれ持った才能があったんですよね。

伊藤 : きっとゼロから1を生み出すタイプというよりは、プロデューサー的というか、こうやったら、こう見られるみたいな目線は、ずっとあったと思います。

― 特にメンズではそういう“編集的”なデザイナーのタイプもいますね。伊藤さんもどちらかと言えばそういうタイプではないですか?

伊藤 : 僕はそうですね。幸宏タイプです。それがデザイナーとしては、コンプレックスだった瞬間もあったんですが、今感じるのは、自分のブランドに対しても、PRの立場で様々なデザイナーの方々と接する場面においては、そんな自分の性質がマイナスではない気がしています。

キーワードはユニフォームとロシア構成主義

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― 伊藤さんがファッションに関して幸宏さんから教わったことはありますか?

伊藤 : たくさんあります。とにかく好きなことがすごくハッキリしている人でした。幸宏さんは基本的にユニフォームが好きなんです、いわゆる全体主義。あとはロシア構成主義。中でも(エル・)リシツキー(※)狂なんです。どのタイミングからなのか分からないですけど。

※エル・リシツキー…20世紀前半を中心に活躍したロシアのグラフィックデザイナー。建築家としても知られる。

佐藤 : YMO以降じゃないかな?

伊藤 : クラフトワークの影響も多分にあると思いますが、リシツキーのアートワークはすごく好きでしたね。あとはザ・ビートルズですね。「HELP!」のリマスターのDVDが出た時は、一緒に何回観たか分からないくらいです。

― ビートルズは少し意外ですね。

伊藤 : 幸宏さんが好きなのは初期のポップな方のビートルズなんですよね。「このスーツのシルエット、お前作れない?」とか、「このパンツのパターン行ける?」とか。「これかー?」って一時停止しながら2人でコマ送りで見たりしていました(笑)。

― なるほど。そういう考えがYMOのこの有名なジャケット(『SOLID STATE SURVIVOR』)で幸宏さんが“人民服”をデザインしたことにも繋がっていたわけですね。これは実は中国の人民服ではなく、日本の昔のスキーウェアを元にしていたという本人談もありますが。

佐藤 : そうです。古い服飾図鑑の中にあった、確か明治時代のスキーウェアです。そこからの発想だと言っていましたけどね。

伊藤 : そこに“いい誤解”が生まれたというか。どう見ても当時のチャイニーズスタイルに見えますけど。そこも計算だったのかなあ。

佐藤 : でもこの頃、明らかに3人とも中国を面白がっていたんですよ。

伊藤 : 人民服と思わせながら、実は明治時代のスキーウェアだった、と言いながら、実際に中国をイメージしていたのかもしれないです。そういうレイヤーがある人だったから。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― もう真実はどちらか分からないわけですね。いずれにせよこれは「ユニフォーム」の発想ですよね。

伊藤 : METAFIVE(※)の衣装の話をいただいて、最後僕がやらせてもらったものは、結局一部の宣伝と幸宏さんが参加できなかった配信ライブで使われただけになっちゃいましたけど、それも実はアーミッシュの制服が元ネタでした。pupa(※)のときは、「衣装はロシア構成主義をニュアンスとして入れたいんだよね」って言っていましたし。

※ METAFIVE…2014年に高橋幸宏&METAFIVEとして結成。2015年にMETAFIVEに改名。高橋のほか、小山田圭吾、砂原良徳、TOWA TEI 、ゴンドウトモヒコ、LEO今井がメンバー。

※ pupa…2007年に高橋幸宏を中心に原田知世、高野寛、高田漣、堀江博久、権藤知彦の計6人で結成。

“ユニフォーム”がYMOをドライブさせた

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― 幸宏さんのバンドは、やはり幸宏さんがファッションの方向性をユニフォーム的にまとめるわけですね。

伊藤 : 「METAFIVEはYMOより大変だ」って笑ってましたね(笑)。

佐藤 : 全員がプロデューサー的な方たちですから(笑)。

伊藤 : 幸宏さんは「全体主義」っていう言葉を頻繁に使っていたんですが、それってファッションショーにも共通するところがあるように思います。フィナーレで全員同じ格好して出す時の画的な強さというか。ユニフォームが「ビジュアル的な強さを生み出せる手法」として持っていたんだと思います。全員が同じ格好をしているカッコ良さって男は好きだから。

佐藤 :  YMOに関しては、当初は突出した個性を消そうという企みがあったと思います。

― ああ、なるほど逆に。幸宏さんはイメージプロデューサーとしての要素がかなりありますよね。YMOに関して言えば、音楽的にはもちろん今聴いても凄いですけど、あのビジュアルイメージがなかったら、ここまでの存在になっていない可能性もありますよね。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

伊藤 : うん、なっていないと思います。ビジュアルと、その当時の時代背景のスキマみないなものがうまく全部が合わさって、特別な時代に、特別な現象になったんだって。

― そしてそれが今見ても「東京」をビジュアライズ出来ている感じがします。

伊藤 : 悔しいですよね(笑)。なぜYMOを超える存在が出てこないのかずっと疑問でした。きっと東京的なユーモアを最後まで体現して、今はそういったものが生まれる土壌がないのかもしれませんね。

佐藤 : 幸宏さんは作ろうとしている音楽がいい感じでドライブしているというか、つまり頭の中で出来上がっている時は、ビジュアルもババッと出てきた感じがします。「今度のジャケット、こういう感じね」ってレコーディング中に言っている時は、音にも自信があるんだなと思っていました。

伊藤 : 常に併走しているんでしょうね。どちらかではなく、その両方があって高橋幸宏だったんだと思います。

山本耀司との共鳴、自身のブランド

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 山本耀司

― 山本耀司さんと幸宏さんは、一緒にコレクションの音楽を手がけたりもされていました。あのお二人の共鳴はどこからスタートしていたんですか?

佐藤 : 1986、7年に耀司さんのパリコレの音楽をやったことがきっかけだと思うんですけど、それ以前のBUZZ SHOPの時から、「耀司さんが、僕がデザインしたBRICKS(※ 高橋幸宏が手がけていたブランド)のジャケットを買って行ったんだよ」と嬉しそうに言っていました。もともと(伊藤)美恵先生を通じたつながりはあったと思うのですが。

伊藤 : うちの父と耀司さんが小学校から同級生なんです。そこからのお付き合いなので、要するに家族ぐるみだったんですよね。

― 伊藤さんの生い立ちとか環境って、聞けば聞くほどすごいですね(笑)。

佐藤 : ただやっぱりショーの音楽をやったことが大きかったんじゃないですかね。それがきっかけで親しくさせてもらうようになって。その後、耀司さんご自身が自分でも音楽をやりたいという気持ちが高まって行ったので、そのお手伝いをしたり。94、5年にコンシピオっていうレーベルを作ろうというところまで盛り上がって行きましたから。

伊藤 : そういえば二人のレーベルがありましたよね。

― 幸宏さんは、ご自身でもブランドをやられていましたよね。BRICKS、BRICKS MONO、YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTIONなど。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

1995年の『MR ハイファッション』の高橋幸宏特集。自身が手がけたブランドBRICKSを初め、YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTIONなど、ファッションディレクターとしての側面にフォーカスしている。

伊藤 : YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTIONが90年代ですね。僕はそこで「Tシャツとかカジュアルラインをやってみろ」って言われたんです。それが僕の洋服作りのきっかけですから。

― つまり伊藤壮一郎という人やsoeも幸宏さんが生んだ作品と言えますね。

伊藤 : はい。ただ服作りにおいては、実は影響はないんです。それよりもムード的な部分です。soeで15年くらい前に割と直球系でYMOをテーマにしたコレクションをやったこともあって、その時には色々相談はしましたけど、デザインの過程においては影響されたことはあまりないかな。どちらかと言うと洋服作りについては、山本 耀司さんの方に影響を受けていると思います。

トム ブラウンを着てお別れ

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和

―  高橋幸宏さんはファッションの世界に何を遺したと思いますか?

伊藤 : 今回お話いただいたときに最初に思ったのは、今って、ファッションやっている人が音楽をやったり、音楽をやっている人がブランドを始めるとか、最近でいうと、ファレル(・ウィリアムス)がLouis Vittonとか当たり前の時代ですよね。でもこの当時はいないんですよね。そういう意味では、幸宏さんはパイオニアなのかなと思いました。ファッション、音楽やアートとのカルチャー横断的な動きっていうのは今でこそ普通ですけど、それを幸宏さんはメインストリームでやっていた。だからこそ、今の時代に繋がっていると感じるんです。

― ミュージシャンとしての枠を広げたというか。

伊藤 : ミュージシャンがちょっと作ったという感じでもないんですよ。今で言う二刀流じゃないけど、音楽とファッション、両方を同じレベルで表現できる人って、今後出てくるのかなと思いますね。遊びの延長ではなく、時代を巻き込んでムーブメントを作るようなことが。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO

― 時代的にもそういう大きな現象は起こりにくくなっているかもしれないですね。

伊藤 : でも本人は最後の方はずーっとThom Browneでしたね。僕は一時期そういう部分にちょっと抵抗してました(笑)。

― 幸宏さんはThom Browne のどこに惹かれたのでしょうね。

伊藤 : やっぱりユニフォーム的なところだと思います。昔、オフィスか何かみたいなコンセプトのプレゼンテーションがあったと思いますが、そういうのも好きだったんだと思います。Thom Browneを“自分の制服”にしていたんですね。そう、一貫しているんです、全体主義的なところとか、好きなものが。最期は、Thom Browneをビシッと着てお別れしていますから。うん、カッコよかったですよ。

― そうだったのですね。いつか幸宏さんとファッションをテーマにした展示とかも拝見したいですね。

伊藤 :どんなものが出てくるのか分からないですけど、いつかそういう展示も面白いかもしれないですね。奥様に相談してみよう。

高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅和 YMO
高橋幸宏 伊藤壮一郎 佐藤雅

高橋幸宏 | Yukihiro Takhashi

1952年 生まれ。16歳でプロのドラマーとして活動を開始。複数のバンドを経て、1972年20歳の頃に加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドに参加、英国でのツアーも成功させる。その後サディスティックスを経て、1978年に細野晴臣、坂本龍一と共にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。日本だけでなく世界にもテクノムーブメントを広げる。中でも代表曲の「ライディーン」は高橋の楽曲。YMO解散後も精力的に活動を続け、23枚のオリジナルのソロ・アルバムをリリースしている他、鈴木慶一とのザ・ビートニクス、細野晴臣とのスケッチ・ショウ、ピューパやMETAFIVEなどでも活躍。2023年に70歳で逝去。ファッションにおいては、Brother、Buzz Brother、Bricks (BUZZ SHOP CO.)、Bricks Mono(PLAN・NET-WERK CO.)、YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTION(WAG Inc.) など自身のファッション・ブランドを展開。YMOをはじめとする上記のバンド、ユニットの衣装デザインも手掛ける。2023年1月に逝去。

[編集後記]
1980年代の多くの小学生のように、YMOの『SOLID STATE SURVIVOR』に衝撃を受けた。音楽もさることながら、あのジャケットを眺めながら、不思議とそこに「オシャレさ」も感じ取っていた。高橋幸宏さんがあの衣装を手がけたことは当然後年に知ることになるのだが、自分がファッションカルチャーの世界に目を向けた原体験だったような気がする。今回は非常に身近な存在の証言者として、soe / WAG, Inc.の伊藤さん、そして幸宏さんのマネージャーを務めた株式会社ヒンツ・ミュージック の佐藤雅和さんに貴重なお話を聞くことができたが、幸宏さんが音楽とファッションに架けた橋が、日本のファッションカルチャーに影響を与えたことが確信できた取材だった。(武井)