Maison MIHARA YASUHIRO
2021.11.29

三原康裕 シューズデザイナーのフィロソフィー

Edit&Text by Yukihisa Takei(HONEYEE.COM)
Photo by Kiyotaka Hatanaka(UM)
Movie Directed by Ryoji Kamiyama



Maison MIHARA YASUHIRO のスニーカーがいま注目されている。一見無作為にボコボコと変形したソール、オーセンティックなスニーカーのデザインを踏襲したアッパー、普通に見えて普通じゃない、どこかアンバランスな魅力を放つシューズは、じわじわとそのファンを拡大し続けている。今回HONEYEE.COMでは、デザイナーの三原康裕にロングインタビューを敢行。あのシューズが生まれた背景、そしてシューズデザイナー、ファッションデザイナーとしての現在の境地を聞いた。

“スニーカーカルチャー”なんて無い?

HONEYEE.COM(以下:H) : 今回はあのスニーカーが生まれた背景についてお聞きしたいのですが、少し遡って色々お聞きしてもいいですか?

三原(以下 M): 大学3年生で(1996年)にブランドを作りましたからね。もう四半世紀以上。それで2000年にはPUMAとコラボレーションをすることになったんです。それが2015年まで15年間。今回のスニーカーの話をするにはそこまで遡る必要がありますね。

H : 立ち上げわずか4年でグローバルブランドとコラボレーションするという早さ、その関係も長かったですよね。

M : 当時“極東の名もなきデザイナー”とグローバルなスポーツブランドが一緒にやるというのはインパクトありましたね。化学反応的な感じを僕自身も楽しんでいたけど、長年やるうちにだんだんセールスメインの話も増えてきて、精神的にも疲れてきた。それで2015年にはスポーツブランドやスニーカーというものから一回離れようと思ったんです。あと僕の中では少し後悔もあるんですよ。

H : 後悔というと?

M :今って大手スポーツブランドによる“スニーカー戦争”のような、ものすごい情報が溢れる世界になっていますよね。あの当時自分もスポーツブランドとファッションというコラボレーションに拍車をかけてしまい、スポーツブランドのファッション化が進んでしまった。もちろん僕だけに原因があるわけじゃないんだけど。2010年頃から、「“スニーカーカルチャー”とみんな言うけど、これはカルチャーなのか?」と思うようになって。少なくとも僕の中ではカルチャーを感じなかった。これは “マーケティング”じゃないかと。

H : いまスニーカーは一大ビジネスになっていますね。

M : そうです。僕が学生時代に読んで影響を受けたオランダのホイジンガ(1872-1945)という歴史学者が書いた『ホモ・ルーデンス』という本があるのですが、その本を要約すると「常に文化の前に遊びがある」ということが書いてあって。僕はそのことに若い頃からとても興味があった。だからPUMAというスポーツブランドの中、当時多少カルチャーになりつつあったスニーカーでどれくらい遊べるかに興味があったけれど、次第にマーケティングやビジネスによって、スニーカー業界全体がねじ曲がってきたと感じていたんです。

遊びが世界を変える

H : その時期はスニーカーそのものにも嫌気がさしていた感じですか?

M : でもね、好きなんですよ。僕はどこのブランドのスニーカーも好き。スニーカーを嫌いになったことは一度もない。新しいスニーカーも常にチェックするし、ヘリテージのスニーカーも好き。CONVERSEやVANSは僕が物心つく頃にはもうあったし、adidasのSuperstarにもいろんな思い出がある。そしてNIKE のAir Jordanのファーストが出た80年代当初は、初めて見るカラーリングにゾクゾクした。そういうスニーカーたちをリスペクトもしています。そして少し距離を置いて冷静になってみたときに、やっぱりスニーカーが作りたくなった。でもどうするべきか。その時にホイジンガの本を思い出して、「やっぱり遊びが大事なんだ」と考えて、「じゃあ子供が紙粘土で遊んで作ったみたいな靴を作ってやろう」と(笑)。コンピュータのアルゴリズムができないようなデザインで、とにかく遊んでやろうというのがあの靴の原点。だからすごくシンプルなアイロニックな事なんです。

H : マーケティング的な退屈さに対する反動が粘土に手を向かわせたというか。

M : あとはスポーツブランドにおけるスニーカーの立ち位置も、スポーツという概念からブランディングメインになってしまった。そもそも僕自身のスニーカーに対する想いは、スポーツブランドじゃない。小さい時からスニーカーを履いてきたし、革靴よりも身近なものなんです。

H : それでスポーツシューズとは違う形のスニーカーを。

M : スニーカーの形をしているけどスポーツシューズではないですからね。僕は単に「フットウェア」と言っています。いろんなフットウェアがあっていいじゃないかと。僕が思うにvisvimの中村(ヒロキ)さんなどもやってきたことですけど、フットウェアという文脈の中に自由度って大事だと思うんですよ。遊びや些細なことがだんだんムーブメントになっていくのがカルチャーだと思うので。

人が求めるものを作っていると終わりが来る

H : いま、かなりの勢いでMIHARAのスニーカーは伸びていますよね。この売れ行きは予想していましたか?

M : 実は半々かな。ちょっと想定よりも早かった。僕はSNSや YouTubeなどの過剰な情報商法からも距離を置いて、ウェブメディアのスニーカー特集とかにも極力参加しない。それはファッションの特性、メディアの特性で考えると、「流行ったものは絶対廃れる」からです。流行るスピードが速いと廃れるスピードも速い。それはもう自然の摂理だからどうしようもない。それで僕らは「バズったら終わり」を社内の合言葉にしていたんです。だからここまで急速に伸びる必要はなかったし、ゆっくりとした成長期にしたかったんですが。

H : スピード感で消費されたくないと思っている三原さんがいるわけですが、もしどこかに飽和点があったときに、「やめよう」になるのか、「続けよう」になるのかが気になります。

M : 僕はもっとこのシューズを否定されてもいいと思っていて。スニーカーフリークからすれば「こんなの許されない!」とか。でも幸か不幸か温かく見守られている。僕がなぜスニーカーを自社でやり始めたのか、一言では言えない想いでスタートしたことを理解してくれている部分もあるのかもしれない。ただ、あるところで「もうやめよう」となるかもしれない。もしそうなるとしたら……「それは単に飽きたから」でしょうね。面白くなくなったらやれなくなると思う。創造するという仕事は、人が求めているものを作っていると終わりが来るんですよ。人を魅了する世界というのは、人が求めてなくても創る世界だと思っていますから。

子供の遊び風の緻密な遊び

H : MIHARAのスニーカーはメイドインジャパンですか?

M : いや、今はほとんど中国。スニーカー製造は中国の方が成長していて、世界中の技術も、人も機械もテクノロジーも集まっている。もうかつての人件費が安いからという感覚ではないですね。

H : その技術でMIHARAさんスニーカーのかなり繊細なタッチも再現されているわけですね。

M : それでも何度もやり直しましたけどね。粘土で作ったものをスキャニングして、樹脂のモック(原型)を作って、それをデータ化するんです。でも情報処理量は普通のスニーカーより格段に多いので、他社でスニーカーを作っている人には「どうやって作っているかわからない」と言われます。あれはデータ越しにスニーカーを作ろうと思ったらできないものですから。

H : そこには三原さんのアルチザン的要素がないとできない。

M : 感覚的なディティールを作ったり、傷を残したりもしていますからね。偶然性のようなタッチを狙っているんですけど、実は偶然は全くなく、かなり綿密にやっています。だから子供の遊び風な大人の遊び。遊んでいるけど、すごく計算高くやっているかもしれない。だからやってて楽しいですよ。やり続けて飽きるものもあるけど、これはやり続けるうちに楽しくなっていくものかもしれないと思っています。

サステナビリティとは時間をデザインすること

H : General Scaleというトレーサビリティにフォーカスしたシューズラインも立ち上げましたよね。あれは近年のサステナビリティに対する一つの答えですか?

M : あれはトレーサビリティやサステナビリティという文脈の中で、どこまで自分たちが本気でやり、どこまで表現できるかという実験です。消費しても地球に負荷がかからないように土に還る素材で作っていますけど、むしろそこで一番考えたのは、捨てるという選択肢にならないようなタイムレスなデザイン。古着屋でボロボロのスニーカーを見て「いいな」と思う気持ちってあるじゃないですか。これが新品でやってみたらどうだろうという単純な事です。

H : タイムレスなデザインこそがサステナビリティという発想ですね。

H : うん。それって言ってみれば「10年先、30年先のデザインをする感覚」なんですよ。参照するのは過去の物が劣化した姿ですが、現在で劣化を表現する場合は未来の姿になります。時間のパラドックスがそこにはあります。その時間の剥離的なロジックが好きですね。僕はどこかでサステナブルという言葉も今はまだ幻想でしかないとも思っているし、“サステナブルな商品”で全ての問題が解決されるかというとそうではなく、環境、社会、経済 一連のシステムの問題であって1つの問題解消では解決しない。あくまでも今のままでは消費者への単なるエデュケーションであって、トレンドやセールストークのように扱われていることにも違和感があります。本来消費者はカッコいいかカッコ悪いか、欲しいか欲しくないかの基準でいいと思います。誰もが自由に買った商品が持続可能なシステムから製造されていることが当たり前になるように。大手もサステナブルなスニーカーを大きく着手していますが、スニーカービジネスは過剰に大きくなりすぎたと思います。「持続可能な環境、社会、経済のシステムの構築」はまだまだ時間はかかるでしょう。

日本、アジアからのシューズデザイン

H : 三原さんの中には、「アジアからスニーカーを出す気概」みたいなものもありますか? スニーカーのほとんどが欧米発という中で。

M : 際どいところを聞いてきたね。これは言いたくなかったけど、実はあるんですよ。僕が1996年にブランドを作った当時は「メイドインジャパンの靴は履きたくない」ってみんな言っていたんです。今じゃ信じられないでしょ? 舶来主義的な下らない価値観ですよ。大学3年生の僕はその状況に傷ついたし、その価値観には付き合っていられないと思った。ぶっ潰すしかなかった。だからその気持ちは今もある。そして僕がヨーロッパやイタリアに行くと、「なんで君のような日本人の若者が革靴をやりたいんだ?」と言われたりもした。でもある時に気づいたんです。「うちの靴はオーセンティックでクラフトマンシップだ」とどこのブランドもセールストークのように言うけどイノベーティブという文脈はそこには無い。しかし、その伝統になる前の約100年以上前の靴職人たちは常に新たな製法を創り出す意気込みがあったはずだ。その想いもあって僕はPUMAの門を叩いたんです。時代とテクノロジーと共に進化するスニーカーの世界に本来の職人の姿をなぞったのです。

僕は革靴が好きだからこそスニーカーの世界にも精通したかったのです。

H : そんな経緯があったんですね。

M : でもその姿を海外の方が見ていてくれたんですよね。その中の当時中学生くらいの子たちが、いま大手シューズブランドで働いてくれているみたい。だから海外でそういう集まりに行ったら、「スニーカーゴッド!」とか呼ばれて(笑)握手されたのは嬉しかったな。これからもアジアから世界に影響を与えるシューズデザイナーは出てくるべきだと思うし、そういう人も増えてきている。本来どこの国からだっていいんですよ、そこに創造性や情熱があれば。

H : 三原さんの場合、そこに今はファッションデザイナーとしての立ち位置もありますよね。

M : 僕は靴のデザインという一番下に見られている業界から出てきた人間なんです。シューズデザイナーがファッションデザイナーより劣っていると思われたり、「小物のデザイナー」と言われたり。バッグや帽子のデザイナーもそういう扱いで、洋服のデザイナーの方が上に思われるんです。だから僕は肩書きに“ファッションデザイナー”と書かれることも多いけど、いまだにどこかで、「シューズデザイナーであり、シューズデザイナーが洋服を作っているだけだ」と思ってる。ではなぜ服のデザインを始めたかというと、シューズデザイナーの地位を上げるため。だけど最初は「靴だけ作っていればいいのに」と言われたし、当の靴産業からも「やっぱり三原くんは裏切って服に行ったね」と言われた。

H : それはキツい言葉ですね。

M : 僕の想いはそうじゃなかった。シューズデザイナーの地位を上げるために、同じ土壌で戦ってやろうというつもりで始めたのにもかかわらず、シューズの世界からは裏切り者扱いで、ファッションの世界からは「やめとけばいいのに」と言われて。そう言われた20代後半の頃が一番悩んだかな。

H : 今やMaison MIHARA YASUHIROは確実にファッションとして認知されていますよね。

M : いつの間にかミラノコレクションに出たり、パリコレクションに出たり。でも心の奥底で、「こんなはずじゃなかったけどな」って自分では思っている。そこまでやるつもりじゃなかったのにって。ちょっと服をやって、また靴に戻ればいいくらいに思っていた。でもだんだんそうはいかなくなって、 今や洋服のデザイナーよりも真面目にやっちゃっている現状があるんです。

Maison MIHARA YASUHIROと東京ファッション

H : 日本から海外に知られるようになったファッションと言えば、COMME des GARÇONS やYohji Yamamoto、ISSEY MIYAKEなどの次の世代として、三原さんと世代の近い裏原宿系のブランドがありますね。そこを三原さんがどう見ていたのか気になるんです。

M : 僕もそうだけど、裏原の人は大手メゾンで仕事して独立するようなプロセスを通っていないですよね。僕もそうだし、裏原の人達もそうだけど、今までのルールから逸脱した“突然変異”で出てきた存在。その人たちが結果的にいろんなものを変えていった。いまでこそ“裏原”という定義をされているけど、リアルタイムではそんな定義もあやふやだし、東京のファッションにはもっといろんなスタイルがあった。それぞれが好き勝手やっていたんですよ。その片隅で僕も存在していた感じですね。外から見れば東京って一括りですけど、さまざまな才能が溢れてました。

H : どこか日本のファッションというと裏原ばかりに目が行きがちなところがありますよね。

M :それは悪いことでは無いと思います。あまり面識はないですが、時代の変化の中でも踊らされず自分の好きなことを追求している(NEIGHBORHOODの)滝沢(伸介)さんは尊敬しています。

H : 三原さんはそういう中でご自身の立ち位置をどのように捉えていますか?

M :日本人は今もファッションの世界では恵まれているんです。三宅一生さんや川久保(玲)さんや(山本)耀司さんがファッションの世界で風穴を開けてくれていたから、どこか優遇されたところもある。昔20代の頃は「50代以上のデザイナーの考えていることなんてどうでもいい」と思っていたけど、僕も来年には50歳ですから。でもこの世代になると、がんばらなきゃなと思う(笑)。「目の上のタンコブ」な部分も大事なんじゃないかと。あとは自分が楽しくなきゃと思いますね。上の世代の方々も楽しそうにやっている姿を見るのは嬉しいし(笑)。

H : 逆に三原さんより下の世代の日本のシューズデザイナーについてはどのようにご覧になっていますか。

M :僕と(foot the coacher)の竹ヶ原(敏之助)は革靴出身で年も近いから弟みたいな感覚だけど、Hender Schemeが出てきた時は嬉しかったですよ。僕は最初から靴が芸術性を持つことに興味があったので、そういうデザイナーが出てくるのを見るとすごく嬉しい。

H : 最後に、三原さん自身は今後をどう考えていますか?

M : 来年で僕も50歳になります。これまで真面目に考えすぎたかなという反省もあって、「とにかく遊ぶしかない」と思っていますね。でも一方でやはり常に成長していたいんですよ。この業界で25年以上やっているけど、それでも成長しつづけたいという欲は変わらない。常に繁栄期を目指したくない、常に成長期でいたいんですよ。

三原康裕 Yasuhiro Mihara

シューズデザイナー / ファッションデザイナー

1972年生まれ。多摩美術大学美術学部デザイン学科テキスタイル専攻の在学中に独学で靴作りをスタート。1996年に靴メーカーのバックアップによりオリジナルブランドの arch doom を立ち上げる。翌年1997年には自身のレーベル「MIHARAYASUHIRO」を立ち上げる。2000年にPUMAとのコラボレーションライン PUMA by MIHARAYASUHIROをスタート。2000年代からはファッションブランドとしてミラノコレクションやパリメンズコレクションに参加。2016-1017AWシーズンからブランド名をMaison MIHARA YASUHIROに改称。

https://miharayasuhiro.jp

[編集後記]

リニューアルしたHONEYEE.COMの第1弾となるロングインタビュー。三原さんは我々の取材を快く引き受けてくださっただけでなく、貴重な時間を割いてかなり長時間にわたり取材に応えてくれた。日本からシューズデザインを長年発信する想い、流行というものに対するデザイン、その考えの随所に哲学的なものを感じたので「シューズデザイナーのフィロソフィー」というタイトルにさせてもらった。本当は服作りの領域まで話をお聞きしたかったが、今回はシューズの話だけでもここに書ききれないほどの言葉をもらっており、そのエッセンスを凝縮する形に編集している。いずれMaison MIHARA YASUHIROの服作りについても改めて取材でお伝えしたいと思う。(武井)